ウクライナと日本の木造建築は、不思議なほど似ている
今回のフェローシップ応募のきっかけを教えてください。
私のもともとの専門は、木造建築です。ウクライナの大学の建築学部を卒業した後、日本語を学びに日本に来たことがあり、日本の建築にも興味をもつようになりました。
日本の建築とウクライナの木造建築は、とても似ているところがあります。ウクライナの木造教会と、日本の神社などの建物の形や屋根を支える構造などは、驚くほどに似ています。これは本当に不思議で、調べてみても昔の時代に日本とウクライナの触れ合いは見つかりませんが、農業を中心とした両国の文化に似たところがあり、木造建築にもそれが表れているのではないかと思います。
2003年頃からは何度か日本に長期滞在をして、日本の建築の保存方法や修理の方法などを研究した経験があります。そのときは建築だけについての研究でしたが、日本各地のお寺や神社、春日大社、白川郷、縄文遺跡といった特徴のある建築物を尋ねて回り、写真や図面、建築の特徴、時代背景、そこへ行くための地図、建築用語などをまとめて『日本の建築歴史』という本を作りました。それはウクライナの建築を学ぶ大学生のために作ったものですが、建築に興味がある人なら誰でも読めるやさしい内容になっています。
当時から、私は個人的に、日本のどの「まち」がどのような方法、経緯で発展してきたのかということにとても興味があり、趣味として歴史的な「まち・村」の活性化や再開発について調べていたのです。
そして最近になって、私が関わったことのあるウクライナの木造教会群が、ユネスコの世界遺産に選ばれました。それによって木造教会のある小さい「まち・村」のコミュニティが、自分たちの地域にも価値のあるものがあると気付くようになり、自分の村をもっと発展させようとか、活性化させようという意見が多く出てくるようになりました。でも、やり方がよくわからないので、この木造教会群の世界遺産登録に関係した私に「相談にのってほしい」という頼みが多くなりました。
そこで、以前に趣味でやっていた日本の小さい「まち・村」の再開発・活性化について、本格的に詳しく研究しようということで、このフェローシップに応募しました。
研究はどのような方法で、進められているのですか?
今回の研究では、日本の歴史的な「まち」をいくつかピックアップして訪ね、「まち」の活性化や再開発についての資料を集めたり、市役所やコミュニティの人、活性化に関わる個人などにインタビューをしたりしています。これまでに石川県の金沢市や山口県の萩市、広島県の尾道市や鞆の浦、鹿児県の奄美、滋賀県の近江八幡市などを調査・研究しています。
資料については、大学の図書館で調べることもありますが、市役所や地域の団体などから、貴重な資料が得られることが多いですね。たとえば近江八幡市は、地域住民が住んでいる古い民家を補修するのに、何にどれだけ補助金を出すかといったことを決めていて、そういう資料は大学や博物館などでは手に入らないものです。また近江八幡市は、コミュニティが主導して町の再開発を行った地域で、まちづくりに関わる地域団体がとても多く、そういうところが持っている資料にも貴重なものがあります。
それから、「まち」についてのインタビューでは、一人の人に話を聞き、その人にまた次の人を紹介してもらうこともよくあります。ですから、最初に誰に話を聞くかはとても重要です。私の場合、ただ情報だけほしいということではなく、その人の感想や、自分の「まち」について何を考えているか、「まち」を変えたいなら何を変えたいかといったことも尋ねます。その人の身分や立場、住んでいる場所が違えば意見も違いますから、何人もの人に話を聞く必要があります。そうして人の考えを聞けば私自身の考えも発展しますし、そのように探究的に調査していくことが大切です。
私にとって興味深いのは、「まち」の活性化を主導しているのは誰か、ということです。たとえば市役所が行うパターン、コミュニティからというパターン、あと個人が主導して進んでいく場合もあります。
もっとも多いのは市役所が主導するパターンです。いちばんいい結果につながるのは、役所とコミュニティが同時に活性化に取り組んでいく例です。それにプラスして、ローカルのビジネスも参加しないと進みにくいです。例えば酒を造る職人とか、商店の人とか、お菓子屋さんなど、地域の産業が参加していくことも重要です。
個人の場合では、小さい村であれば、お寺のお坊さんが中心になるパターンもあります。萩市のあたりにある雲林寺(ネコ寺)がそうですね。大きい「まち」であれば、一つの例は尾道です。園山春二という画家は、坂が多くて暮らしにくく空き家ばかりになっていた尾道に20年前に東京から引っ越し、空き家を買ったり、市役所に借りたりして「尾道イーハトーブ」という独自の世界を作り、それが「まち」の活性化につながっています。
それから、近江八幡の八幡掘の再開発の活動の中心になった人も、川端五兵衛という個人です。この人はその後、近江八幡市の市長になりました。これはとても珍しいことです。この人は1998年に市長になり、八幡掘とその隣のある西の湖と周辺の川までの一帯を八幡水郷として保存しようということで、重要文化的景観を登録・保護するプログラムを作りました。プログラムに最初に登録されたのが近江八幡の水郷で、今では全国のさまざまな地域が登録されています。
川端五兵衛は、もともとコミュニティの普通の人です。1970年代に汚れて悪臭がするために埋め立てられようとしていた八幡掘を守る活動から始まり、市長になっても好きな八幡掘を忘れず、わざわざ保護するためのプログラムを作り、自分がやりたいことを完成させました。これは、とても尊敬すべきことです。
歴史の分野では「個人は歴史を変えることはできない」といった考え方もありますが、それは正しくないと思います。個人でもできるんですね。
唯一の成功の法則はない。それぞれの「まちの性格」を考えることが大事
研究の手応えといいますか、今回の研究で見えてきたことはどんなことでしょう?
今回の研究では、「まち」の再開発の成功・失敗の要因を明らかにすることを目標にしていますが、今の時点でわかってきたことは、「成功のレシピはない」ということ。一つの「まち」の成功の戦略は、次の「まち」の失敗になる可能性もあります。まずは「まち」の性格を研究しないといけません。それは歴史とも密接な関係があります。
たとえば、ある「まち」は武家の城下町で、「まち」も武家の主導で作られました。その武家はものすごく指導が上手で「まち」も栄えたため、コミュニティの人は、自分からあまり動いたことがありません。今も、まちづくりは全て市役所が主導しています。地域の人は、市役所が頼むと喜んでサポートしますが、自分たちからのイニシアティブはありません。私がそれに気が付いて、コミュニティの人と話しをするときに「このアイデアはどこから出てきましたか」と尋ねると、「それは市役所から頼みがあって、私たちは参加しているだけ」という答えです。
逆に、コミュニティのイニシアティブが強いのは、歴史的に庶民の「まち」でした。行政が指導しているという意識がなく、全部自分たちでやらないといけないという考えで、今もそれが続いています。
ですから、第一に歴史的な背景や、それによってできた「まち」の性格がどのようなものかわからないと何もできないと思います。あとその「まち」に何があるか。建築とか、自然、職人の技術、祭りとかですね。それは何に基づいて「まち」を活性化しようかということです。
それから二つ目のポイントは、交通の問題です。どのような交通手段があり、交通量はどれくらいか。例えば、新幹線の駅に近いなど、交通の便利さが「まち」の発展にどれだけ影響があるかといった点です。
三つ目のポイントは、「まち」が目指すところとも関係がありますが、どこまで活性化したいか、どのような活性化をしたいかです。ただ観光客だけをたくさん呼んでも、コミュニティの生活は全然変化しません。観光客が地域の生活に支障をきたしているだけ、というパターンはよくないんですね。でも観光がないと、絶対に活性化もできないのです。その割合、どこまで活性化したいのか。それも大事だと思います。
あと若者がいないと、何もできません。日本の小さな「まち・村」では、若者たちは仕事がある京都や東京、大阪に行ってしまいます。まず「まち」の活性化をしたいというとき、どのように若者を呼ぶことができるかも考えなければいけません。最近では、経験的に自分の地域から出ていった若者ではなく、外から若者を呼んだほうが効果的でラクと言われています。外から画家やアーティストに来てもらうなどして、「まち」が活性化すると、仕事ができてきて地域の若者も帰るというパターンも結構あります。
「まち」の活性化のためによく動いている人はもともと地元にいる人ではなく、外の地域から転居してきた人や結婚でそこに住むようになった女性、あるいは一度、進学や就職で地元を離れ、戻った人などです。やはり、どこか新しい場所で違う生活を経験すると、自分の地元の小さい「まち」の価値がよくわかるようになるのでしょう。
それは私もよくわかります。私が住んでいるキエフという「まち」はウクライナの首都ですが、そこにずっと住んでいると当たり前になってしまい、普通の「まち」でつまらない生活しかないと思ってしまいがちです。
でも最近は、「まち」を訪れた観光客が、素晴らしいところでみんな来てほしいと温かく見てくれることも多く、見方が違うので驚くことがあります。
自分のいちばんやりたいことができていて、幸せです
研究をされていて、苦労されたことは?
研究の苦労としては、1年間という滞在期間で日本のいろいろな「まち・村」を訪ねるので、たとえば奄美などは1週間と時間を決めて、その中で効率よくインタビューをしなければいけませんでした。あとは、インタビューした人の「名前」にも苦労しました。できるだけ名刺をもらって、読みにくい名前はふりがなを振って、全部名刺入れに整理しました。それがないと報告やレポートを書くときに困ります。名刺を持っていない人はインタビューで「まずお名前をお伺いできますか」と頼み、メモをして保管します。ただ、地域のお年寄りなどでは名前を言っているのによく聞こえない、わからないということも。ほほえましいのですが、すごく時間がかかります。何度も聞き直すのも失礼かもしれないので、名前を確認できない場合は、家族の名前でメモしたりしました。
また、インタビューではすべての話が事実とは限りません。知識がない場合もありますが、無意識なのか意識的なのか、事実でないことを話す人もいます。そのため一人にだけインタビューをするのではなく、何人かの人の話を聞いて比べる必要があります。ただ何人もの話を比べると、事実が自動的に表れてきます。それはとても面白いです。
研究環境はいかがですか? また今後の展望を教えてください。
京都大学での研究環境は、私はとても満足しています。アパートの場所も、大学に行くにも便利ですし、京都駅のすぐそばで、朝はいちばん早くて5時20分に出かけられます。電車の時間も正確でとても便利です。それから大学の人たちにも、とてもよく手伝っていただいています。それはとても感謝しています。不思議なことに町でフィールドワークをしているときも、私のことをよく知らない人まで一生懸命に手伝ってくれたりして、有難いです。
私はこの研究ができてとても幸せです。研究している時間は、すごく好きな時間です。私にとって今の研究は楽しみを強く感じることができ、いちばんやりたいことを制限なしにやれていますから。
今後は、今回の研究の経験を生かして西ウクライナの村の再開発について、それぞれの村と相談していきたいと思います。同じように木造教会のある村でもユネスコの世界遺産に登録されている村もあれば、そうでない村もあります。ユネスコに入らない村をどのように活性化できるかなども、よく質問されます。実は日本での研究でも、ユネスコに入らなくても活性化できるという事例もいろいろな例が集まっています。またユネスコが行っているのは、世界遺産というプログラムだけではありません。たとえば金沢は「手仕事のまち」としてユネスコ・クラフト創造都市に登録されていますし、隠岐などが認定されている世界ジオパークというプログラムもあります。これらを使って、違う入り口でユネスコに入ることもできるのです。そうした日本での経験をウクライナでも活用しようと思っています。
それから機会があれば、また違う形になるかもしれませんが、日本での研究も続けたいですね。
(2019年5月取材)