電車が「来よる」と「来とる」を使い分ける西日本の言葉
まずは今回のフェローシップに応募されたきっかけ、経緯から教えてください。
トルコの首都アンカラに、国際交流基金で派遣されている日本語の先生がいらっしゃり、博報財団のこのフェローシップについてのチラシを持ってきてくれたのがきっかけです。私は当時、トルコの大学の日本語教育学科の助教授でしたが、准教授になるための試験があり、とりあえず2年間はその試験を中心に研究をやり、無事に合格できました。そして大学内の仕事も片付けられる状況になりましたので、応募させていただきました。
私の所属する学科は主に日本語の先生を養成するのが目的で、中東とヨーロッパではたぶん唯一の学科です。日本の企業に就職するケースも多く、日本語を学ぶ学生は増えています。うちの学科だけでいえば、20年前は学生が100人くらいでしたが、今は200人近くいます。教員も20年前は4人でしたが、今は11人でそのうち5 人は日本人です。
先生の研究内容の「トルコ語と日本語の対照研究」とは、どういうことをするのですか?
今、私が取り組んでいるのは、現代日本語と現代トルコ語で、時間的表現の中でもそれほど時間を表さないような表現がどう異なるかについて、研究しています。
その中でも二つの研究がありまして、招聘期間の前期は「時間的限定性」といって、文の中で名詞が表す時間性で、名詞の中で限定されている名詞と限定されていない名詞があるかどうかについて、対照研究しました。
たとえば、「彼は日本人だ」とは言えますが、「彼は日本人だった」とはなかなか言えないですよね。日本人というその人の性質が変わらないので。しかし、たとえば、すごく若く見える人がいてその人に仕事を尋ねると「大学の先生だ」と言われ、「なんだきみ、先生だったんだ」と言う。それは過去に先生だったわけではなくて、その人が先生であることを初めて聞いて驚いているときにも「だった」という過去の表現を使うんですね。この「初めて知って驚く」という表現をミラティビティと言いますが、これについて研究しました。
そして後期は、そこから少し離れまして、たとえば「地面に雪が積もっている」という現象があるとします。それに対して、過去に「雪が降った」とも言えますし、それを目で見たときには「雪が降っている」とも言えますし、誰かからそれを聞いたら、「雪が降ったそうだよ」という表現もできます。「雪が降ったみたい」「降ったらしい」「降ったようだ」という、ほとんど同じことを表しているんですけれども、いろいろな言い方ができます。それがトルコ語ではすべてが一つの文で表現できるんですね。それを話し手と聞き手の間の暗黙の了解といいますか、その場の空気を読んで何を言わんとしているかを相手に分かってもらうのです。
それと似ている現象が、日本語では関東方言にもあります。たとえば「電車が来ている」と言いますと、電車が駅に到着しているか、電車が来ている最中かという見分けが実はできません。「電車が来ているから急いでよ」というような他の文章を付加することで曖昧性が解消されますが。しかし、西日本ではそれを使い分けるんです。電車が到着している状態は「電車が来とる」、電車が来る途中でしたら「電車が来よる」と言います。同じく、秋の紅葉で「見て、赤い葉っぱが落ちている」と関東では言いますが、それでは地面に落ちている状態か、風に揺られて地面に落ちている途中かはわかりません。それに対し西日本では前者を「葉っぱが地面に落ちとる」、後者を「落ちよる」と使い分けます。
微妙な違いがあるんですね。日本人でも、関東の人はその使い分けを知らないと思います。
こうした違いをトルコの日本語学習者が知ってどういうメリットがあるのかというと、トルコ人の学生が卒業すると、多くの人が日本企業で働きます。日本企業で働く人は全員が関東出身というわけではありません。関西出身だったり、いろいろな地域の人がいますが、関西のほか九州、四国、沖縄は全部この使い分けをしています。日本人の半分が使い分けているにもかかわらず、日本語の教科書は使い分けていない関東の言葉が中心なんですね。そうしますと、たとえば「もう壊れているか」「これから壊れるか」という微妙な違いを間違えることで、会社でのトラブルになることも考えられます。
先ほどの「初めて知って驚く」表現にしても、たとえば沖縄の人が朝、起きて地面に真っ白な雪が積もっていたら、「あ、雪が降った」とだけは言わないですね。「雪が降ったんだ」というような言い方をします。それからある人の姉が先週結婚をして、その人がそれを初めて聞いたときは「お姉さん、結婚しちゃったんだ」というような言い方をします。日本語ではいろいろなパターンがありますが、トルコ語ではまたそれも一つの表現で表せるのです。
このような表現は本来、日本語学習の1、2年で学ぶような簡単な項目ですが、私があえて3年生と4年生にアンケート調査を行ったところ、半分以上は使い分けができていないことがわかりました。そして残りの半分もあやしいです。たとえば「私のおじいさんが第二次世界大戦のときに死んだ」など、時間のはっきりした構文であれば間違わないのですが、「ほら、天気予報によると雪が降ったそうだ」といった簡単な文でも、驚いているとわからずに間違う学生が少なくありません。
最近は文法教育をそこまで細かくやらなくても、「人間同士で話せばなんとかなるんだ」という意見もありますが、それはあくまでも一般の人についての話です。プロとして仕事をするには、そこまできちんと使い分けられないとうまくいかないと思います。そのためには文法を基盤にして会話能力を上達させる対策が大事だと、私は思っています。この時間的表現と、時間的表現に似ているけれども実際はちょっと異なる意味を持つ表現を、もう少し真剣に学生に教えなければならないと反省しています。
研究の目標は、文法の研究書を出版すること
こちらでの研究生活はどのような過ごし方ですか? また研究環境はいかがですか?
1日の過ごし方としては、午前中はテレビのニュース番組を見たり、昼食の用意などをして、午後は資料や文献を読み、夜にアンケート調査の結果をエクセルで分析したりしています。データ収集もトルコの学生のみならず、岡山や関西、東京などに行って、トルコ人の留学生にも意見を聞いています。研究環境は、ここ東京外国語大学の図書館経由でインターネットに入ると、いろんな文献にすぐにアプローチでき、入手できますから快適です。
あとは昔、留学していた東京大学の当時の先輩や同期たちと勉強会をしたりもしています。似たような研究をしている先輩たちと、ときどき居酒屋に行ったり。専門が言語学ですので、それほどたくさんの資料がなくても「こういう構文、どう思いますか」という程度でも話し合いはできます。また学会などで顔を合わせたりしたときは、有益な情報や意見をいただいています。もちろん、こちらの東京外国語大学の受入担当教員の菅原睦先生もトルコ語が専門なので、いろいろと助言をいただいております。
今回の研究の最終的な目標は、『日本語のテンス・アスペクトと時間的表現』という研究書を出版することです。9月までには出版できると思っていましたが、それが難しくなったので、帰国してから出版します。
それでは、先生がそもそも日本語に興味を持たれたきっかけを教えてください。
もともと英語、ドイツ語は高校の選択科目で学んでいて、大学ではヨーロッパの言語とは違う言語を勉強したいなと思っていました。その中でロシア語と日本語が頭の中にありましたが、当時、「キャプテン翼」などの日本のアニメを少し見たこともあり、日本ってどんな国だろうと興味を持っていました。ロシアはトルコに地理的に近いので、ロシア語を希望する同級生も多いので、みんなとはちょっと違う言葉をやったほうが珍しく、将来的に有利になるのではないかと思い、日本語を選びました。
1994年に大学の日本語教育学科に入学し、4年の学部生のときに岡山大学に1年間研修生として留学して、そのときに当時の先生の影響で、日本語の文法に興味を持ちました。それまでは単に日本語を勉強している普通の大学生でしたが、日本の企業で働くというより日本語の文法をもっと身に付けたほうがいいのではないかと思い、大学院を目指しました。そして大学を卒業して東京大学に1年間、研究生として留学。その後、対照文法の研究をなさっている先生がいるということで岡山大学に留学し、修士と博士を取るために6年間勉強してトルコに戻りました。
日本語の文法に興味を持ったのは、トルコ語と日本語の語順が似ていたからです。しかし、どちらも奥深い言語で少しずつ調べていくうちに、やはり二つの言語の違いに気付くようになりました。そして、それをこれから育っていく学生、日本語学習者にどうやって伝えていけばいいかを研究する、というのが私の目標の一つになったのです。
日本に最初に来たときの岡山大学の印象は、地方の大学ですけれども、勉強に相応しい場所だなと思いました。自然に恵まれている反面、買い物や図書を手に入れたりするのも便利で、いいところだなというイメージです。さらに日本の伝統文化に触れることもできました。もちろん東京でも可能ですけれども、岡山ですと当時それほど留学生がいなかったので、たとえば書道や茶道の体験をしたいと思ってどこかへ行くと、そこで初めての外国人として大歓迎され、長時間、文化の詳細なところまで教えていただきました。
私は当時、岡山大学の書道部に入っていて、そこで展示会を開くと地域の人も見にいらっしゃるので、そこで地域の人とも交流ができます。すると今度は招待されたりして、お互いに話を聞いたり、いろいろと書いて交換したりしていて、本当に良かったと思います。
最初の頃に、言葉の面で驚いたこともあります。昔、まだ日本語がそれほどできないときに、広島の福山のある施設に行きました。そこは本当に自然しかないようなところで、近くには1km離れたところにコンビニが1件しかありませんでした。施設の中で日本語の講座があり、その後にコンビニに行って帰ってきたら、施設の館長さんに「どこ行っちゃったんですか?」と聞かれたんです。普通に聞くと、何かがあって途中で行ってしまったように聞こえるでしょう? 悪いことでもしたのかなと。しかし実は福山では、それは「どこに行かれたんですか?」という敬語なのです。別に怒っているわけでもなく、敬語で「どこにいらしてきたの」という単なる質問で、でもそれを自分は怒られていると思い、他の人に相談しました。「行ってはダメなところでしたか」と。そこで「何と言われました?」と聞かれ、「いや、『どこ行っちゃったんですか』と言われたんで」「あ、それはここの方言では敬語なんですよ」と。全部は無理でしょうけれども、やはり敬語を知らないと困ると実感しました。
神話・妖怪といった日本文化にも触れてほしい
それではプライベートで、日本滞在中に楽しんだことはありますか?
プライベートでは、1年間文法だけを研究していますと、さすがに私も退屈してしまいますので(笑)、せっかく1 年滞在するということで、浮世絵の美術館に行くようになりました。六本木の森美術館、原宿の太田美術館などに月1回くらい行っています。
あと、妖怪と日本の神話についても調べています。日本の神話は妖怪の元になるものですが、妖怪だけでも日本のものはユーモアがあります。話の内容はちょっと怖そうですが、子どもが好きそうなのもありますし。そういう妖怪が描かれた浮世絵にまず惹かれ、妖怪についての本も少し読んでいます。学会などで出かけたときには、その地域に妖怪の道といったものがあれば、そこへ行って写真を撮ったり。たとえば、水木しげるさんの漫画にもある一反木綿は、浮世絵の中にもあります。それと河童が有名ですね。日本の妖怪文化は今のポップカルチャー、アニメにも出ています。
もちろん、トルコにもそういう妖怪はいます。昔テレビもラジオも映画も何もなかった時代は、電気もない中で子どもを寝かせるのにそういう話をしていました。トルコにはかなり怖いものもあります。子どもが寝ないと誘拐をする妖怪とか。でも今は携帯とタブレットの時代になりましたので、われわれのトルコの学生たちにもそういう日本の文化に触れてもらえたらいいなと思います。東京の街を歩くときも、たまたま入った店の奥まったところに河童の絵があったり、狸の置物があったりしますから。
そして文法の研究書を書き終えたら、日本の神話と妖怪についても、できれば一冊本を書きたいなと考えています。
(2019年5月取材)