日本語に特化した二重経路モデルの完成を目指しディープな基礎研究に挑む
「そもそも...」という発想は、新しい研究に着手する際には欠かせないものなのかもしれない。人はどういう能力を使って文字を読んだり書いたりしているのだろう。その中のどんな力が弱いと読むスピードが遅くなってしまうのだろう―。
発達性ディスレクシア(以下、ディスレクシア)の音読に関する認知モデルに、世界的に知られている「二重経路モデル」がある。二重経路モデルとは、人がどのような能力を使って文字を読んでいるのかを表した音読認知モデルのこと【図1】。まず英語のモデルとして確立し、英語に近い文字を使ったイタリア語、フランス語、ドイツ語と波及し、アルファベットの文字を使った言語では、このモデルの考え方の正しさがわかってきている。ではアルファベット以外の文字でもこのモデルがあてはまるのか、ということで、英語モデルを独自に提唱したMax Coltheart教授(Macquarie University,シドニー)に指導を受け、日本語版二重経路モデルの作成に挑んでいる若き研究者が三盃さんだ。
高校生の時から「将来は自閉症の子を支援するような方向へ進めれば...」と漠然と考えていたという三盃さん。大学に入り、特別支援教育への興味も持ちつつ英語の教員免許も取得し...という中、ある講義で初めてディスレクシアという言葉を知ったという。「英語、漢字、平仮名やカタカナでディスレクシアの発現率の違いを説明する仮説で、その時に、日本語よりも英語の発現率のほうがパーセンテージが高いと知りました。だとしたら日本のお子さんの中で英語に困難がある子がいるはずで、そういう子にはどんな支援をするのかなと思ったんです。先生に訊ねたら、日本にはまだ英語が苦手な子に支援する方法はないと聞き、それからディスレクシアについて書かれた論文を初めてたくさん読み、日本語で読み書きが困難な子がこんなにもいるんだとわかり、そこから興味がわいて今の研究につながっています」。
アルバイトで長く講師をしていた経験も、日本人の子どもへの英語支援に興味が向いたきっかけでもあったようだ。
なぜ読む速度が遅いのか 障害メカニズムを解明する
では助成研究で三盃さんが読みのスピードに注目したのはどんな問題意識があったからなのか。
「平仮名やカタカナが正しく読めない子が、練習して読めるようになった時、次に問題になるのが読みの速度だと思っています。平仮名カタカナのように読み方が規則的かつ一通りで習得しやすい言語の場合、イタリア語もそうなんですけど、どちらかというと正確性―正しく読めるかどうかよりも、むしろ表面化しやすいのが音読速度の遅さなんです」。
読むのが遅いと、試験の時間内に回答するのが間にあわないなど学習面でも不利になることが多い。だが、これまでの日本の研究では、何が原因で音読速度が遅くなるのかは十分に解明されていないし、音読速度の向上を目的とした支援方法が考案されていない現状があると三盃さんは考えた。
もうひとつの理由が、日本語版二重経路モデルの作成だ。「私は研究手法としてコンピュータを使ったモデリング、シミュレーション研究というものをしています。今はたとえばディスレクシアの子の読みの困難さをコンピュータ上に再現することができるんですね。英語の二重経路モデルを枠組みに使ったのは、このモデルが読みの正確性だけでなく、音読速度についても再現することができるモデルだからです」。
三盃さんは助成研究以前にも、定型発達児童の音読モデルを作成して読み障害の原因を検討するなど、シミュレーション研究の実績を積んできた。日本語版二重経路モデルが完成すれば、読みのスピードが遅い子に具体的にどういう指導をすればよいかが見えてくる。
「読みが遅い原因もわかるし、力がある部分もあるはずなので、指導にはその強みの部分を使っていけばいい。弱いところと強みをより根拠のある形で見つけやすいと思います」。
期待は膨らむが、日本語版二重経路モデル作成は、現在も進行形だ。この3月にも三盃さんはシドニーに渡って指導を受け、試行錯誤しながらモデリングを続けており、完成が待ちどおしい。
「助成研究で報告できたのは、ディスレクシアのある成人(障害群)と健常な成人(健常群)の皆さんに実際にいろいろな課題をやってもらい検査して、どうして音読が遅いのか、というメカニズムを仮説として立てたところまでなんです。本来なら、その仮説が正しいかどうかをコンピュータ上で再現したモデルを使って、仮説自体の妥当性を検証する、というところをやりたかったのですが、モデル自体が英語のモデルと同じ面もあれば違う面もある。それを修正してみるとまた違う面がある、というのでまだずっと研究が続いていて、シミュレーションするのに必要なモデルがまだ正しくできていません」。
日本語版二重経路モデルが完成すれば学術的価値の高い研究になることは間違いない。が、それ以上に注目すべきは、メカニズムの仮説を立てるために細かい基礎研究を行い【図2】、貴重なデータをいくつも報告している点だ。
詳細な基礎研究が効果のある支援法に必ずつながる
助成研究以前の臨床研究で三盃さんは、平仮名カタカナの音読速度が遅いのは①一文字をオトに変換する(オトを想起する)のに時間がかかる②単語全体をまとまりとして変換する力が未発達、という二つの要因があるのではという仮説を立てた。が【図2】を見てもわかるように、目で文字を見て口からオトを発するまでの間には実にさまざまな処理プロセスがあり、どのプロセスが弱いと音読が遅くなるのか、それぞれのプロセスがどう関わりあっているのかは、仮説を立てようとした日本語のモデルでは明らかになっていない。そこで三盃さんは各プロセスをいろんな課題(検査)を実施することで詳細に分析し音速度障害のメカニズムを解明しようとした。
その結果、音読速度には次のような三つの能力が関わっている可能性が明らかになった。
一つめが、図2の【視覚分析】にあたる処理能力で、文字を見たときに、その文字の特徴を見出して、何という文字であるかがわかる力である。ディスレクシアのある成人の中には文字形態を正しく把握できない、正しく把握できても時間がかかるという方がいた。最初の段階でつまづきがあるかもしれないことがわかった。
二つめが【文字単語心的辞書】が未発達なのではないかという点。図2の【語彙判断課題】を見ながら三盃さんに説明していただこう。
「語彙力の検査は、「親切」というオトを聞いて「親切」の意味に合う絵を選んでください、というふうに実施します。聞いて意味を想起できるということは「親切」という言葉のオト自体を知っている、それが【音声単語心的辞書】のことです。【意味システム】は「親切」の言葉の意味です。正しい絵を選べるということは「親切」という言葉のオトも知っているし意味もわかっているということ。そして【文字単語心的辞書】とは、つづりを知っていることになります」。
実際に障害群で、オトも意味も問題がない人に【文字単語心的辞書】の能力をみる検査をすると、健常群に比べて成績が低く、【文字単語心的辞書】の大きさが小さい(未発達)ことがわかるそうだ。
「つづり自体を覚えていない=頭の中に無い、という場合と、頭の中にはあるが想起するのに時間がかかる=どの引き出しに入っているのかなぁと探すイメージ、そのどちらかですね」。
三つめが、【非語彙経路】の処理スピードが遅い=一文字言葉であったり、あるいは実在しない言葉をオトに変換するスピードが遅い、ということだった。
さらに、幼児から小1までの学習初期の段階では、視覚認知能力が音読速度の発達に関係していることを明らかにしたり、【文字単語心的辞書】の大きさが漢字の読み書きの能力とどう関わっているかなどについても緻密な検討を行った。こういう細かい研究と、その子に合ったトレーニング法は、すぐには結びつかないが、いずれ必ず役に立つ。また、基礎的なことが正しくなければ、本当に効果のあるトレーニング法の開発にはつながらないのだ。
三盃さんの音読速度に関する基礎研究は、他の知見とともに組み込まれながら、音読スピードを上げるトレーニング開発や実際の支援の場で活かされている。具体的には、筑波大学在籍時代の指導教官である宇野彰教授が立ち上げたNPO法人LD/Dyslexiaセンター。三盃さんはそこで児童生徒の支援にも携わっている。
「トレーニングを始める前は、中学生くらいだと、乗り気じゃないなとか半信半疑だなというお子さんもいます。でも、平仮名カタカナの練習をして一回目の段階をクリアした時の達成感に満ち溢れた表情は、トレーニング前とは本当に違っています。出来た!っていう。次の段階の練習に入る時も「やります!」と即答してくれる前向きな印象が多いですね」。
今春から大阪教育大学に移籍した三盃さん、新天地でのさらなる活躍が期待される。
子どもたちは科学的根拠のある方法で支援されるべきだと思います
「日本語の発達性ディスレクシア」研究のパイオニアでもある宇野教授。「発達性ディスレクシア(以下、ディスレクシア)に関する正しい理解を広めたい」との熱意から、研究データを活用して社会に還元していく活動も積極的に行っている。 例えば、ディスレクシア児の小学校や家庭での実態について再現ドラマで構成したDVDや、通常学級の中での支援方法を示した動画などを作成して教育関係者に配布している。さらに、人材育成。文部科学省から委託を受け、つくば市で2年、船橋市では3年をかけて、約30時間の実習も含めた研修を実施し中核教員を養成した。今後は現場の教師だけでなく、教師を志す学生向けの研修システム作りを依頼されているそうだ。「人は城なり、です」。 宇野教授は、NPO法人LD/Dyslexiaセンターの理事長を務めているが、「この間、もしかしたらディスレクシアかも知れないと担任の先生に言われて私たちの所へ来られた、小学校1年生のお母さんがいて、その親御さんには小1の段階でそこに気づく学校の先生は超すぐれているとお話しました」。 しかし、その担任教師は、今後のあるべき姿なのでは、と宇野教授は言う。「人を育てるって、学校を卒業するまでじゃないですよね。この子たちが大人になって自立するためには何が必要なのか、特別支援の先生だけでなく通常学級の先生方にも知って貰いたいと思っています」。
教育現場に向けて発信を続けている宇野教授だが、その基本には、「エビデンス(科学的根拠)にもとづいた、正しい方法で子どもたちをサポートしたい」という信念があるようだ。
「科学的根拠のないことを言う人たちが結構いますね。医学界でも少し誤解されていることがあるようなので、私たちが発信するデータに基づいて修正していってほしい。お医者さんの診断書は日本では重要ですから」。
宇野教授がエビデンスを重要視するのは、経験則からのトレーニングで却って症状がひどくなってしまったり、効果が得られないケースを多く見てきた歯がゆさもあるようだ。
「私はもともと言語聴覚士なので、読み書きの困難な子がトレーニングによってある程度読み書きができるようになり、社会で自立していって欲しいという所に行きつくのですが、それを経験則でなく科学的にやりたいんです。その子の能力の何が強くて何が弱いのかを客観的に調べ、この子にはこの能力は十分あるからこの力を使ってトレーニングしようと考えるわけです。そのためには細かい検査が必要です。基礎研究によって少しずつ、効果的なトレーニングに結びつく根拠が積み重ねられてきていると思います」。
二重経路モデルのモデリングは三盃さんにしかできない事だと宇野教授は言う。
「彼女にしかできない結構ディープな部分をやってもらうことが、すぐには結びつかないけれど将来的には子どもたちの役に立つ。卒業生ではあるけれど、今は非常に重要な共同研究者のひとりです」。
数年前に宇野教授は『ファンタジウム』(杉本亜未・著)という漫画のディスレクシアに関する部分を監修した。「ディスレクシアの男の子が主人公で、彼はマジシャンという設定です。これテレビドラマか映画に誰かしてくれないかなぁ、嵐とか使って(笑)」。
科学的根拠のある支援と、正しい情報を広めて多くの人に知ってもらうこと。ディスレクシアのある子への大切な支援だと言えるだろう。