研究紹介ファイル
No.20 藤井 裕士氏
聴覚に障害のある子どもたちが主体的に言葉を習得するための選択肢のひとつになればと思っています
聴覚に障害のある子どもたちが言葉を習得することの困難さは想像に難くない。
藤井さんによれば、聞こえる子は5~6歳までに2500から3000語を表出でき、理解できる語彙数は5000から6000くらいあるといわれているそうだ。ろう学校幼稚部の子どもたちは就学すると聞こえる子どもたちと同じ教科書を使って授業を受けるそうだが、就学時に教科書を使った学習についていくためには1200~1500語の語彙が必要だという。が、聞こえない子どもたちの中には必要数の語彙を習得することは難しいものもいる。
視覚的に言葉に触れる機会を増やすことで語彙習得を支援する方策はないだろうか、と考えた藤井さんは「ポケモンや妖怪ウォッチのメダルを集める感覚で楽しく言葉を集め覚えることができれば」と思いつき、タブレット端末でアプリケーションを使っての支援に着目した。
「欲しかったアプリは、動画・音声・文字・イラストや写真などの画像、すべてのメディアを扱える機能を持つものです。既存のアプリを探しましたが幼児でも使えそうなものが当時は見あたらず、開発することにしました。」
めざしたアプリの特徴は三つ。
一つ目は、聴覚障害児の語彙習得に関する多様な課題に対応できること。
「聴覚障害児は、聞こえの支援に人工内耳や補聴器を使っている子、文字の習得が遅れているため文字で学習するのが難しい子、手話を母語として育ってきたため日本語へ切り替えることが難しい子など、それぞれの課題をかかえています。どの子の課題にも柔軟に対応できるアプリにしたいと思いました。『いちご』という言葉を、音声で聞ける、文字を見られ手話動画を見られる、写真を撮って登録できるなど、子ども一人ひとりの認知特性にあった手段を選択できるようにしたいと思いました。」
二つ目は、聴覚障害児の大きな課題である、言葉を記憶しておくのが苦手な点を補える可能性だ。聞こえる子が犬を見て「いぬ」と発語できるのは頭の中に「い」と「ぬ」というオトが記憶されていて取り出せるからだが、聞こえない子の中にはオトの情報で記憶することが苦手な子どももいる。
「二音節程度の『いぬ』とか『ねこ』ならすぐ覚えられても、音節数が増えて『クリスマス』になるとなかなか覚えられない子どももいます。"とうもろこし"が"とうもころし"になるのも記憶する力の弱さが関係している例です。」
言葉をアプリに記録し、繰り返し見ることで、記憶の困難さを補えないかと藤井さんは考えたのだ。
三つ目は、保護者の負担感の軽減だ。聴覚障害児の語彙習得支援としてよく使われる教材に「ことば絵じてん」【参照1】があるそうだ。子どもが何かを経験したとき、それに関連した「えんそく」「バス」といった言葉をイラストや写真と一緒に、カテゴリーごとに分類しながら増やしていく手作りの辞典だが、保護者がイラストを描いたり、広告の写真を切り抜いて貼ったりと手間がかかり継続作成が難しい現状があったという。バスの写真を撮ってアプリに登録し「バス」と文字入力して言葉を増やしていける"デジタル版ことば絵じてん"なら簡便で継続しやすいのでは、と考えたそうだ。
【参照1】ことば絵じてん
アプリを使うことで、子どもが言葉に触れる時間を延ばせないか
以上のような考察に加え、ユニバーサルデザインの視点からの検討、既存の辞典や図鑑、玩具やアプリに関する調査からの検討などをまとめ、オリジナルアプリの製作を企業に依頼した。
試作は「ことばずかんAP」と名づけ【参照2】、実践をとおして有効性を検討することにし、年長組4名の幼児とその保護者を対象に次のような実践を行った。
【参照2】開発アプリ「ことばずかんAP」
「当時担任していたクラスの幼児4名が対象だったので、統計的な検討を実施して一般化するのは無理があると考えました。量的な比較については個人内の比較を主とし、観察やアンケートから得られた質的な情報を併せて考察を行いました。」
実践1:「ことば絵じてん」と「ことばずかん」を作る(登録する)時間・様子の比較
目的 | 保護者の負担軽減と継続使用が可能かどうかを検討するため、「ことば絵じてん」と「ことばずかん」の作成時間を比較する。 |
---|---|
方法 | 参観日に実施。扱う言葉の数は5個。 |
結果 |
|
考察 | 「ことばずかん」は作業時間の短縮による保護者の負担軽減のため、継続的に取り組むことができる可能性が示唆された。 「子どもたちも保護者のかたもすぐに使いかたを覚えてくれましたし、使いやすいという意見をもらいました。ただ、言葉の習得の手助けに手話での支援が有効な子の場合に、保護者が手話を知らないと手話の動画を入れてあげることができない、といった問題がありました。」 |
【表1】作成時間の比較
実践2:「アナログのメディア」と「ことばずかん」の使用時間・様子の比較
目的 | 繰り返し言葉に触れることが習得に有効であるとの観点から、「アナログのメディア(ことば絵じてん、絵日記、絵本、その他言葉に関する遊び)」と「ことばずかん」どちらの使用時間が長いか、依存などはないか、を比較する。 |
---|---|
方法 |
II期:「ことばずかん」と「アナログのメディア」・保護者の介入なし(2015年冬季) III期:「ことばずかん」と「アナログのメディア」(2016年春季)「ことばずかん」については保護者の介入を依頼(1日にひとつの言葉を子どもと一緒に登録) |
結果 |
|
考察 |
|
【表2】使用時間・様子の比較 一人あたりの一週間の平均時間
「実はこの実践中に、アプリ自体の操作性の問題が判明しました。言葉の登録数が多くなると動作が重くなり、操作性の悪さによる子どもの意欲低下がうかがえました。」
またアンケートの結果、保護者が継続的に介入することが家庭の事情などで難しい実態も明らかになったという。
さらに藤井さんは、対象幼児たちの言葉の登録数と習得語彙数の関係についても保護者の協力を得て検討した。【表3、4】
結果 |
|
---|---|
考察 |
「ことば絵じてん」と「ことばずかん」の登録語彙数と、それぞれの使用時間と、習得語彙数には何らかの因果関係が示唆された。 「最終的に残った課題は、子どもたちが飽きてしまうことでした。特に言葉の登録数が増えるとアプリが重くなって操作性が悪くなり使わなくなってしまう。登録数が少ないと繰り返し見るうちに飽きてしまうのです。」 |
【表3】一年間の語彙の増加数(保護者による記録)
【表4】「ことば絵じてん」と「ことばずかん」の登録数の比較
AR教材を使って、子どもたちが主体的に言葉に触れるようにならないか
以上のような実践をとおして得られた結果や考察をもとに、藤井さんは「ことばずかん」の成果と課題を【表5】のようにまとめ、次なるICT教材の開発と活用に挑んだ。
「データ容量が重くなっても操作性が悪くならないようにするには、既存のシステムを使うのが最善と考え、大手IT会社が無料で配布していたAR(AugmentedReality、拡張現実)を使えるシステムを見つけました(Aurasma:HewlettPackardReveal)。」
【表5】アプリ「ことばずかん」の成果と課題
考案したAR教材は、「ケーキ」のイラストにタブレットをかざすと、「ケーキ」をあらわす「文字(平仮名)」「音声付き手話動画」「音声付き指文字動画」が提示される仕掛けにし、手話を知らない保護者でも困らないようにした。【参照3】 既存の手話辞典を参考に言葉を1200語程度精選し、選んだ言葉のイラストをイラストレーターに依頼して描いてもらった。動画は手話と指文字のできる教員に頼んで撮影した。また、動画の背景の色を「きこえない子のための日本語チャレンジ!(難聴児支援教材研究会)」の品詞の分類に合わせ、名詞は黄色、形容詞は水色、動詞は緑色にするなどの工夫を凝らした。【参照4】
【参照3】AR教材
【参照4】手話動画の工夫
AR教材は「ことばずかんAP」のように使用者が任意の単語を追加登録することはできないが、参照した単語のイラストを「ことば絵じてん」などに貼るだけで言葉を追加することができる。
またAR教材なら「ことばずかんAP」より子どもたちが日々の生活の中で直接体験とつなげながら言葉の世界を広げることができると考えたそうだ。
「たとえば『おちゃ』という言葉を覚えるときに、急須に『おちゃ』のイラストを貼っておき、実際に湯呑にお茶を注いでみた後に、タブレット端末をイラストにかざして『文字』や『音声付き手話動画』を見るなど、直接体験と結びつけた使いかたができると思いました。」
さらにイラストにタブレット端末をかざすと文字や手話動画が飛び出してくる楽しさが付加されれば、幼児が主体的に見るようになるのではとの期待もあった。
「好きな絵本を繰り返し見るように、遊んでいるうちに自然と覚える、楽しみながら見て覚えられる、それが自学自習につながらないだろうかと考えました。」
作成したAR教材の効果を検討するため、保護者の協力を得られたA児(3歳組~4歳組にかけての時期、主なコミュニケーション手段は手話)を対象にいくつかの実践を行った。
実践概要:AR教材の効果~A児の事例~
目的 | AR教材を使用していないときとAR教材を使用したときとで、聴覚障害のある幼児が主体的に情報を取得しようとする時間(対象物を見る時間)に変化が現れるかどうかを検証する。【表6】 |
---|---|
方法 |
|
結果 |
|
考察 |
|
【表6】「ことば絵じてん」を見た時間の変化
また、藤井さんはAR教材の活用方法を示し【表7】、特にイラストはカードやカルタに展開したり、50音表を作成して掲示したりとバリエーションに富んだ活用例を提示した。【参照5】
「開発したAR教材は、WEBサイト『ことばずかんAR』で公開し無償で配布していましたが、2年ほど前にシステム自体が閉鎖されてしまい、現在は『ことばずかんNT』としてイラストのみを無償で一般公開しています。」
苦労して作成したサイトだっただけに残念だったというが、思いがけない嬉しいエピソードもあったそうだ。
「誰がどの国からどのイラストに何件アクセスしたかなど、ログ解析ができるようにしていたのですが、あるとき東南アジアの国から急に何百件ものアクセスがあったことがありました。またイギリスで日本語教師をしている人から、教材を使ってもいいですかとメールが届いたこともありました。自分が作った教材を世界のどこかで誰かが言葉を習得するために使ってくれているのだと思うと、とても嬉しかったですね。」
【表7】大人の言語モードと幼児の主な言語モードとAR手話教材の活用方法の例
【参照5】AR教材の活用例(カード・シール・50音表)
子どもたちの心の動きをどう言葉に結びつけていくか
開発したアプリ教材もAR教材も、聴覚に障害のある幼児たちが主体的に言葉に触れる機会を増やすために効果があるとまでは結論づけられなかった。使っているうちに飽きてしまい継続的な使用につながらなかったという課題に対して助成後のいま藤井さんはどう取り組んでいるのか。
「いろいろやってみて得た気づきはたくさんあります。アプリ開発に着手した当時は子ども向けの知育アプリなどが出始めた時期で、依存の問題も取りざたされるようになっていました。依存してしまうくらいだからタブレットでアプリを使えば子どもはきっと主体的に学んでくれるに違いない、と思って作ったのですが意外とそうではないことがわかったのです。
子どもの言語習得に大切なのは、やはり直接体験であり、体験をとおして子どもの心が動いたときにその気持ちを言葉に結びつけていくことが大事なのだと実感しました。子どもの心の動きを言葉に置き換えていく手助けとして、イラストや写真を提示していく、といった寄り添いかたが必要だな、と。」
藤井さんの子どもたちの語彙習得に関する支援は「基本に立ち返っている」という。
「現在は3歳児の子どもたちのクラス担任なのですが、自然体験をしたり、身体を動かして遊んだり、毎日絵本を読んだり、繰り返し歌を歌ったりといった基本を以前より多くやっています。毎日の生活の中で少しでも子どもたちの心が動き、そのとき、助成を受けて開発した教材を活用してひとつでも多くの言葉を楽しみながら習得してくれれば...。」
最後に、藤井さん自身の助成研究後についてうかがってみた。
「助成研究をきっかけに、もっと研究をしたいという気持ちが芽生えました。ちょうど助成研究終了のタイミングで大学院へ行かせてもらい、カリキュラム・マネジメントと特別支援学校における専門性の継承や向上についての研究に2年間携わりました。現在はインクルーシブ教育をどう実現していくか、共生的価値観を醸成していくにはどういう教育方法がいいのか、といった研究に取り組んでみたいと考えています。助成研究は自分の人生に大きな影響を与えてくれた経験だったと思っています。」
イラストにタブレットをかざして手話動画を見る幼児
「ことばずかんAP」は現在も企業の協力を得ながら開発中。「いちご」という言葉には「あかい」「くだもの」「あまずっぱい」「はる(春)」などを併せて登録することができる。「子どもたちを飽きさせないアプローチをどうするかが課題です。」