Vol.41 |
2019.11.18 |
先生のコトダマ
小学4年生の時でした。
角刈りで、声の大きな先生が担任になりました。
それまで3年間、担任はずっと女性。
中でも3年生の担任は、赴任したばかりの
若い先生でした。
今から思えば、あれが初恋なのかもしれない。
先生のことが好きで、日記を一生懸命書きました。
すると先生は必ず一言返してくれます。
透明な赤インクで書かれた先生の文字を
眺め、褒められると有頂天。
「ひきたくんが、頼りだよ」
「ひきたくんから、みんなに言ってみて」
こんな言葉にほだされて、柄にもなく
クラスのみんなをひっぱったりしたのです。
ところが4年生の担任は違いました。
毎日の日記は続きましたが、開くと
青インクのはんこが押されているだけ。
次第につまらなくなって、文面はおざなりに
なるばかりでした。
成績も落ちました。
朝のドッチボールにも参加しなくなりました。
すべてがガサツで、えこひいきもひどい。
特に私は嫌われているような気がして、
だんだんと休みがちになっていきました。
晩秋の頃だったと思います。
学校に行ったら、隣のクラスの先生が
教室にいます。
担任の先生は、体調を崩されて今日は休みだと
言うのです。
今から思えば大変失礼な話ですが、
そのときのほっとした気持ちを今でも
忘れることができません。
この穏やかな1日がずっと続けばいいなぁと
思っていました。
願いが通じたのか・・・
先生は、翌日も休まれました。
肺炎をこじらせて入院したと聞かされました。
本当に申し訳ない話です。
私は嬉しくて仕方ありませんでした。
しかも調子にのった私は、自習の時間に、
「Y先生の遺書」
というふざけた文章を書いたのです。
内容を今でも覚えています。
「実は、病気で休んでいるのではありません。
みんなにだまっていたけれど、私は3億円を
ぬすんだ犯人です」
当時の世間を騒がせた事件を題材に、
こんなでたらめな文章を書いて、周囲を
笑わせていたのです。
みんなが「そういえば、似てる!」と
大笑い。
その声が大きすぎて、気がついたら隣の
担任が私のうしろに立っていました。
「書いたものを出しなさい」
紙をとりあげ一瞥した先生は、
「人が苦しんでいるときに、こんなことを
書く人間は、最低です。これ、Y先生が戻って
きたら見せますから」
と言って持っていってしまったのです。
それから重苦しい日々が続きました。
食事ものどに通りませんでした。肺炎で先生が
苦しんでいるときに、とんでもないものを
書いてしまった。
先生に怒られる。今より嫌われる・・・
そう思うと、学校にいくのがますます嫌に
なりました。
数日後、担任のY先生がでてきました。
大きなマスクをして、声がとてもかぼそかった。
少し痩せたようにも見えました。
「ひきた、あとで職員室にきなさい」
きた・・・・
万事休す。
もうダメだ。僕の人生は終わった・・・
しょげかえって職員室にいくと
Y先生がいる。手招きされて、校長室に
入るように指示されたとき、学校をやめさせ
られるのかと思いました。
机の上には、私の書いた「Y先生の遺書」が
あります。
それを見るうちに、涙がこぼれてきました。
「ひきた。おまえの文章、おもろいなぁ。
先生も笑ったわ。そうか、3億円犯人に似てるか?
これ読んで、先生たちもみんな大笑いやった。
先生もこれ読んで、みんな元気やったんやなと
ほっとしたわ。
ひきた。こんなおもろいもん書けるんやったら
それを大事にした方がええ。
ただし、人を傷つけるものはあかん。おまえは
人を傷つけなくても、おもろいものを書ける
はずや。
この紙、もらっとくで。大事にするわ」
しばらくは、何が何だかわかりませんでした。
いや、今も、先生の真意をすべてわかったとは
言えません。
しかし私は、この時にとても大きな励ましと
戒めを同時にもらった気がするのです。
大嫌いだったY先生の「先生のコトダマ」が
その後の私の人生を変え、文章を生業にする
ようになりました。
Y先生の励ましと戒めの幅の中で、
私は今日も、生きているのです。