Vol.05 |
2018.06.01 |
見抜かれた「じーん」
くものある日 くもは かなしい
くものない日 そらは さびしい
八木重吉さんの詩「雲」です。
「かなしさ」と「さびしさ」の
違いをたった2行で見事にいい
当てている。
言葉の味わい方を学んでほしい。
そう思って朝日小学生新聞の
連載コラムに書きました。
タイトルは「じーんを大切に」
子どもの頃にこの詩を塾で習い、
「かなしさとさびしさの違いに
じーんとくるやろ」
と先生が言ったことを覚えて
いたのです。
大勢の小学生から手紙が届きました。
楽しみに読んでみると、
こんな内容です。
「私は、八木重吉さんの詩には
ちっとも感動しませんでした。
空を見てますが、雲がたくさん
あると、かなしいよりも
うれしそうにみえました」
「私は、雲があってもなくても、
じーんとはきません。
一番じーんとくるのは、
住んでいる沖縄の夕日です。
一度見にきてください」
「じーんを大切にという言葉は、
大切だと思いました。私は、雲の
数よりも、教科書を忘れたとき
友だちが見せてくれたことに
じーんと来ました」
彼ら彼女の多くは、このコラムを
読んで、実際に空を見上げています。
その結果として、
雲があっても雲は「かなしい」とは
感じず、雲がなくても空は
「さびしい」とは感じない。
少なくとも私は「じーん」と
こなかったことを正直に語って
くれたのでした。
私の完敗でした。
私は「じーん」を説明するのに
詩人鈴木重吉の権威を借りようと
しました。
何よりも、その「じーん」も
塾の先生の受け売りでした。
この横着が、子どもたちには
すぐにバレたのです。
彼らは空を眺め、流れる雲を
楽しそう、気持ちよさそう、
勢いがあると感じました。
雲ひとつない空よりも、
夕焼けや友情に、
「じーん」を感じていたのです。
「じーん」を大切にしていないのは
私自身でした。
手紙は、私に多くを教えてくれたのです。
子どもは、鑑賞よりも行動。
彼らは、詩を味わうよりも先に
書かれた内容を自分で味わいに
行きます。
「じーん」と感じる瞬間は、
人によって千差万別。
それを「こうだ!」と権威で決めつける
ようなことはしてはいけない。
むしろ彼らの多様性をこちら側が
認め、学び、賞賛すべきものでした。
「じーんを大切に」
私の拙いコラムとは裏腹に、
この言葉は多くの子どもに
受け入れられました。
その後送られてくる手紙には、
焼いたお餅が膨れるイラストの
横に「じーん!」がありました。
友だちとケンカした話の中にも
「仲直りしたときじーんときました。
大切にしようと思いました」
と書かれていたのです。
私はコラムを書くときに、
空を見上げる子どもの姿を
思い浮かべます。
大きな瞳で、流れゆく雲を
眺めている彼らを想像し、
「横着は見抜かれる。
本当に感じた『じーん!』を書け!」
と自らを戒めているのです。