小学校低学年の頃、『長くつ下のピッピ』と出会いました。スウェーデンが舞台の物語なので、日本とは違う文化や風習がたくさん登場します。ザリガニを食べたり不思議なお祭りに参加したりとピッピの冒険のすべてが新鮮に映りました。それに、ピッピの親が船長で、大人がいない家で床にクッキーの生地を広げてのばすなどワクワクすることをたくさんしていたんです。ピッピとは物語の中での出会いなのに、本当の友達のように思い、ピッピに会いたくて本を開いていました。この一冊との出会いから、図書館で本を探すようになり、どんどんいろいろな本を読むようになりました。
小説を読みながら「自分が消える瞬間」を味わったことはありませんか。物語の中に入りこみ、登場人物が体験したり考えたりしたことを自分もリアルに感じ取る。私はこの瞬間がたまらなく好きなんです。この状態になると、しばらく現実世界に帰ってこられなくなってしまいます。続きが読みたくて、ごはんを食べるのも忘れてしまうくらい(笑)。私は物語に溶け込むこの一瞬を求めて、本を開いているのだと思います。
一方で、「つまんないな」と感じる本を読むのも好きなんです。つまらないと思ったら、「こんな展開になったらおもしろいのに」と想像してみます。それで、想像通りになったら「やっぱりな!」と思いますし、想像の範囲を超えるような展開になったら「すごい! この発想はなかった!」と感動する。書かれていることをただ受け止めるのではなく、自ら作品に積極的に参加することで楽しんで読めることもあるのです。
それに、たとえ一度は「おもしろくない」と感じた作品でも、何年か経った後に読んでみるとすごくおもしろく感じることもあります。だから、一度読んでおもしろくなかったものを「つまらない」と決めつけないほうがいいです。私も子どもの頃には、漢字が難しかったり読み通せなかったりして、投げ出した本がたくさんあります。無理をして読む必要はなく、もっとおもしろそうな本が見つかれば気軽にそちらに移っていい。一度途中で閉じた本に、自分が成長したタイミングで再会し、大きく心が揺さぶられることも多いのです。
また、一回読んだ本のかけらが自分の中に残って、どこかのタイミングで芽を出すこともあります。読んでいるときにすべてを理解し、味わい尽くす必要なんてないのです。
「読書はおもしろくない」と思っている人は、もしかしたら正解を探すような読みかたをしているのかもしれません。例えば、本の裏表紙や帯にあらすじが書いてあることがありますよね。そのあらすじに囚われてはいないでしょうか。あらすじはあくまで編集者の読み方にすぎません。その通りに読む必要はまったくないんです。「全然違うストーリーに読める」でもいいですし、「主人公ではなく脇役のこの人が気に入ったからその目線で物語を追ってみたい」といった読み方もおもしろいですね。
私の作品に『舟を編む』という辞書編集部を舞台にした小説があります。私は辞書を懸命につくっている編集者の様子に共感して書いたのですが、読み手によっては「こんなめんどうくさい仕事はできないと思った」という感想を抱いてもいいんです。
国語の読解文では、何を伝えたいかを読み取るような問題が出題されることがあります。しかし、読書は自由にしてください。もし作家が「この作品で伝えたいことを一言でお願いします」と言われたら、とても困ると思います。「二十文字で小説に込めた思いを書け」と言われて、それができたら、何百ページにもおよぶ物語を書く必要もないんですよね。だから、読み手には作品を自由に感じてほしい。それが作家にとってもうれしいことなのです。
あくまで本は娯楽のひとつです。読まなければいけないものではありません。私も子どもの頃は読書ばかりしていたわけではなく、外でもよく遊んでいました。だから、自分の好きなことをすればいい。自分が本当に心が躍ることを楽しめばいいのです。
ただ、本は娯楽の中でもとても手軽です。電気もいらないので、停電になっても昼間なら読めます(笑)。体力もいらないですし、友達が忙しくてもひとりで楽しめます。しかも、本の中では見知らぬ遠い土地に行けたり、現実には出会えないような人と会えたりもする。だから気軽な気持ちで手に取って、本の世界を楽しんでみてください。
一方で、「つまんないな」と感じる本を読むのも好きなんです。つまらないと思ったら、「こんな展開になったらおもしろいのに」と想像してみます。それで、想像通りになったら「やっぱりな!」と思いますし、想像の範囲を超えるような展開になったら「すごい! この発想はなかった!」と感動する。書かれていることをただ受け止めるのではなく、自ら作品に積極的に参加することで楽しんで読めることもあるのです。
それに、たとえ一度は「おもしろくない」と感じた作品でも、何年か経った後に読んでみるとすごくおもしろく感じることもあります。だから、一度読んでおもしろくなかったものを「つまらない」と決めつけないほうがいいです。私も子どもの頃には、漢字が難しかったり読み通せなかったりして、投げ出した本がたくさんあります。無理をして読む必要はなく、もっとおもしろそうな本が見つかれば気軽にそちらに移っていい。一度途中で閉じた本に、自分が成長したタイミングで再会し、大きく心が揺さぶられることも多いのです。
また、一回読んだ本のかけらが自分の中に残って、どこかのタイミングで芽を出すこともあります。読んでいるときにすべてを理解し、味わい尽くす必要なんてないのです。
「読書はおもしろくない」と思っている人は、もしかしたら正解を探すような読みかたをしているのかもしれません。例えば、本の裏表紙や帯にあらすじが書いてあることがありますよね。そのあらすじに囚われてはいないでしょうか。あらすじはあくまで編集者の読み方にすぎません。その通りに読む必要はまったくないんです。「全然違うストーリーに読める」でもいいですし、「主人公ではなく脇役のこの人が気に入ったからその目線で物語を追ってみたい」といった読み方もおもしろいですね。
私の作品に『舟を編む』という辞書編集部を舞台にした小説があります。私は辞書を懸命につくっている編集者の様子に共感して書いたのですが、読み手によっては「こんなめんどうくさい仕事はできないと思った」という感想を抱いてもいいんです。
国語の読解文では、何を伝えたいかを読み取るような問題が出題されることがあります。しかし、読書は自由にしてください。もし作家が「この作品で伝えたいことを一言でお願いします」と言われたら、とても困ると思います。「二十文字で小説に込めた思いを書け」と言われて、それができたら、何百ページにもおよぶ物語を書く必要もないんですよね。だから、読み手には作品を自由に感じてほしい。それが作家にとってもうれしいことなのです。
あくまで本は娯楽のひとつです。読まなければいけないものではありません。私も子どもの頃は読書ばかりしていたわけではなく、外でもよく遊んでいました。だから、自分の好きなことをすればいい。自分が本当に心が躍ることを楽しめばいいのです。
ただ、本は娯楽の中でもとても手軽です。電気もいらないので、停電になっても昼間なら読めます(笑)。体力もいらないですし、友達が忙しくてもひとりで楽しめます。しかも、本の中では見知らぬ遠い土地に行けたり、現実には出会えないような人と会えたりもする。だから気軽な気持ちで手に取って、本の世界を楽しんでみてください。
質問:読む本の選び方を教えてください。
三浦さんの答え:書店での偶然の出会いを大切にしています。私はカバーにビビッときて「ジャケ買い」することがよくあります。読んでみておもしろかったら、その作家のほかの小説も読んでみるといいですね。また、夏目漱石や宮沢賢治などの作品には読み継がれる理由があります。気が向いたら、そうした名作も手に取ってみると新たな発見があるかもしれません。「数を打てば当たる」の精神で読んでいけば必ずおもしろい本と出会うことができます。
質問:長い小説を読むのが苦手です。読めるようになる方法はありますか。
三浦さんの答え:慣れていないのに、いきなりフルマラソンを走れといわれても難しいですよね。だから、本ものろのろと読んでもいいですし、読み飛ばしたっていいんです。私も何十ページも読み飛ばして、「この間に何があったんだろう?」と想像するという読み方をしてみることもあります。それでも、おもしろい作品はおもしろい。読み慣れてくれば、少し難しい小説でも「こう読めばいいんだな」ということがわかってきます。
読み終わった直後は、自分がその作品から何を感じたのか言葉にならないことも多いでしょう。ときには心の動きを言語化するのに、何年も時間がかかることがあります。だから、「うまく言葉にできない」と思ったときには、具体的なことから書き始めてみてください。「主人公はたこ焼きが好きだと思う」といった本論に関係ない書き出しでもいいんです。作品の中に見つけた「好き」を表現すれば、あなたの熱量を伝えていくことができるはずです。